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バイオグラフィー 1970~1979

1970年 : 23歳

2月3日
マーキー・クラブに出演。共演はジュニアズ・アイズだが、これが彼らとの最後のステージとなる。
ディスク&ミュージック・エコー誌の最優秀新人賞に輝く。
2月28日
ハイ・タイドの前座としてバジルドン・アーツ・センターに出演。このときがザ・ハイプとしての初のステージとなる。ラインナップはベースにヴィスコンティ、ドラムスはジョン・ケンブリッジ、ギターに抜擢されたのがミック・ロンソンだった。
3月20日
ブロムリーでアンジーとの挙式。式に参列したのはボウイの母ペギーを含めてたったの6人。
4月
シングル「The Prettiest Star」発表。このシングルはボランがギターを弾いているヴァージョン。
5月10日
アメリカの有線TVの”Ivor Novello”授賞式で「Space Oddity」を演奏。
6月22日
前作より「Memory Of A Free Festival」がシングル・カット。AB面共に新たに録り直したヴァージョン。
11月
アメリカにてアルバム『The Man Who Sold The World』がマーキュリーより発売される。このUS盤はカトゥーン・カヴァーと呼ばれるイラストのジャケットが採用されている。

1971年 : 24歳

1月
ボランの影響の色濃いシングル「Holy Holy」がイギリスで発売される。
同1月から翌月にかけてプロモーションのため渡米。
4月
本国イギリスでも『The Man Who Sold The World』が発売となるがセールスは伸びず。キーフの手がけた女装ジャケットが物議を呼び、差し替え処分に。数少ない女装ジャケはコレクター・アイテムとなる。
同4月、覆面ユニット”アーノルド・コーンズ”名義でシングル「Moonage Daydream/Hang On To Yourself」を発表。このユニットはデザイナーのフレディ・バレッティらとともに結成したバンドだが、ジギーの曲の原型がこのときに生まれていた。9月にはカップリングを「Man In The Middle」に変更したシングルも発売となる。
5月30日
アンジーとの間に息子ゾウイが誕生。
6月22日
ヒッピーたちの野外音楽イベント”Glastonbury Fayre”に出演。「The Supermen」を演奏。約30年後ボウイは再びグラストンベリー・フェスティバルへ出演する。
9月~10月
オランダ、ベルギー、フランスをまわる小規模なツアーを敢行。
10月
RCAレコードと正式に契約。敏腕マネージャー、トニー・デフリーズの口説きと『Hunky Dory』のデモが契約の決め手となった。
12月17日
RCAより『Hunky Dory』が発売。シングルカットされた「Changes」のヒットとともに全英3位の好セールスを記録。

1972年 : 25歳

1月22日
メロディ・メーカー誌のインタヴューにてバイセクシャルを公言しマスコミの注目を一身に集める。グラムロックと同期したボウイのメディア戦略がスターダムを切り拓いていく。
2月
9月まで8ヶ月間をかけてイギリス各地をまわる初の大規模な”Ziggy Stardust”ツアーを展開。
4月
次回作『Ziggy Stardust』のレコーディング・セッションが開始される。
4月26日
シングル「Starman」がアルバムに先駆けリリースとなる。7月にはトップ10入りを果たす。
6月9日
SFをコンセプトにしたアルバム『The Rise And Fall Of Ziggy Stardust And The Spiders From Mars』を発表。第1週に8,000枚の異例ともいえるセールスを記録し全英5位にまで昇りつめる。
7月8日
ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでのクジラ保護を唱えるチャリティ・イベントに出演、ルー・リードやリンゼイ・ケンプを招いたターニング・ポイントともいえる公演を行う。
7月28日
ボウイがモット・ザ・フープルに提供した「All The Young Dudes」がシングルとしてリリース。
8月19日
ロンドンのレインボー・シアター公演は”Ziggy Stardust”と題してケンプのマイム・カンパニーやアストロネッツ、バックにはスパイダース・フロム・マースを従えて”完璧なショウ”と絶賛される公演を披露。当日の前座はロキシー・ミュージック、客席にはエルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガーら錚々たる著名人が集まり、ボウイは一夜にしてスターダムの頂点に立つこととなった。翌日には追加公演も行われた。
9月1日
シングル「John, I’m Only Dancing」が発売となるが、当時歌詞の内容が卑猥とされ、いくつかのラジオ局では放送禁止となった。
同9月、USツアーに向けてストラトフォード・イースト・シアターで2週間に及ぶリハーサルが行われる。
9月22日
クリーヴランドより初のUSツアーが開始となる。アメリカへはクイーン・エリザベス2世号で渡った。このUSツアーは当初8回の公演だったが、RCAの意向により8週間17ヵ所を追加しアメリカ横断ツアーとなった。
9月28日
NYのカーネギー・ホール公演にはルー・リードやトッド・ラングレン、そしてボウイの憧れの存在でもあったアンディ・ウォーホールらが駆けつける。ボウイはウォーホールに共同で映画を作ることを申し出たが、あっさり無視されてしまう。
10月20日
サンタモニカ公演は1994年に『Santa Monica ’72』としてオフィシャル・リリースされている。
11月24日
シングル「The Jean Genie」が発売。アメリカでは71位だったが本国では2位を記録。
12月
ボウイがプロデュースを手がけたルー・リードのアルバム『Transformer』がリリースされる。
12月23日
ロンドンのレインボー・シアターから短期間のツアーが開始される。翌年2月からはふたたびUSツアーの遠征となるのだが、この時期に次回アルバムのセッションが行われた。

1973年 : 26歳

1月25日
USツアーのためサザンプトンより船でアメリカへ向かう。
2月14日
NYラジオ・シティ・ミュージック・ホールよりUSツアーがスタート。
4月5日
ボウイ初来日。2週間半の船旅を経て横浜港に到着。帝国ホテルで記者会見を開く。
4月6日
アルバムに先駆けたシングル「Drive-In Saturday」発売。
4月8~20日
東名阪と広島で来日公演が行われる。最終日の渋谷公会堂ではボウイが衣裳を脱ぎ捨て、観客は終始興奮状態だった様子でコンサートを終えた頃には警察が介入する騒ぎとなった。
日本公演を終えるとソ連客船ジェルジンスキー号に乗り、ナホトカからシベリア鉄道でモスクワを経由してイギリスへ戻った。
4月12日
アルバム『Aladdin Sane』を発表。イギリスでは予約注文だけで10万枚を売り全英1位を獲得しており、当時の人気はまさに破竹の勢いだった。ジャケットの額にデザインされた稲妻は炊飯器についていたナショナルのマークを拝借したとされている。
同4月、ボウイがミキシングを手がけたイギー&ザ・ストゥージスのアルバム『Raw Power』がリリース。
5月12日
ロンドンのアールズ・コートよりジギー凱旋ツアーが開始となる。ツアーは37ヵ所、54回にわたる。
7月3日
ツアー最終日のロンドン・ハマースミス・オデオン公演。ゲストにジェフ・ベックが飛び入り出演するなど完璧なステージが繰り広げられた。しかしアンコール時に突如ボウイによってジギーの引退表明がなされ、関係者以外ファンやマスコミは騒然となった。そして9月以降に予定されていた大規模な北米ツアーもこの引退によってキャンセルとなった。この最終日の公演のドキュメンタリー・フィルム『Ziggy Stardust The Motion Picture』が10年後に劇場公開、同時にサウンドトラックも発売された。
7月9日
フランスのシャトー・デルヴィーユで次回アルバムのレコーディングを開始する。
10月12日
シングル「Sorrow」をリリース。次回作に収録されたマーシーズのカヴァー。
10月18日~20日
NBCのTV特番のためにロンドンのマーキー・クラブでライヴ仕立ての撮影が行われる。このショウは”1980 Floor Show”と題され、ゲストにマリアンヌ・フェイスフルを招いて視覚演出の行き届いた映像が制作された。このショウがボウイとスパイダースの最後の共演となる。
10月19日
ボウイお気に入りの60年代ロック・ナンバーを中心としたカヴァー・アルバム『Pin Ups』発売。

1974年 : 27歳

1月
ルルのシングル「The Man Who Sold The World」発売。プロデュースをボウイとミック・ロンソンが共同で手がける。
2月15日
シングル「Rebel Rebel」が発売。シングル・ヴァージョンはボウイがすべての楽器を演奏しているもので、アルバム・ヴァージョンは後に録り直されたもの。
2月22日
ソロ活動を開始したミック・ロンソンのレインボー・シアターで行われたライヴにゲスト出演。
同2月、昨年10月頃からロンドンのオリンピック・スタジオに篭ってジギー引退公演の映画化のためのトラック編集に取り組んでいたがフィルム編集の遅れやその他の事情でお蔵入りとなってしまう。それと並行して次回作のレコーディングも進められていた。
3月
ミック・ロンソンのソロ・アルバム『Slaughter On 10th Avenue』発売。ボウイは2曲に参加している。
4月24日
アルバム『Diamond Dogs』発売。G・オーウェルの小説『1984年』をミュージカル化する構想は許可を取れず断念、代わって退廃した未来のミュータントのストーリーがコンセプトに敷かれた。スパイダースと離れたこともあり、ボウイがほぼすべてのパートを自身で担当している。
6月14日
シングル「Diamond Dogs」発売。そしてモントリオールを皮切りに北米をまわる”Diamond Dogs”ツアーがスタートする。20万ドルの費用をかけたステージ・セットが話題を呼びツアーは成功を収めるがマネジメントの不備など様々なトラブルに見舞われる。そしてライヴの内容も前半と後半では大きく異なり後半は”Philly Dogs”ツアーと称される次回作のソウル・ナンバーが主体のライヴになっていた。
9月13日
間もなく発表となるライヴ盤より「Knock On Wood」がシングルカットされる。
10月29日
先のツアーのフィラデルフィア公演を収録したライヴ盤『David Live』が発表される。

1975年 : 28歳

1月26日
BBCで先の北米ツアー時のドキュメンタリー番組”Cracked Actor”が放送される。
2月21日
先行シングル「Young Americans」が発売となる。シングルは演奏時間が約2分もエディットされているが、アメリカでは好調にセールスを伸ばす。
3月7日
アルバム『Young Americans』を発表。プラスチック・ソウルと自嘲をまじえて命名した新たな変身は、アメリカでは好意的に受け入れられたがジギー当時からのファンは驚きを隠せなかった。
3月11日
グラミー授賞式にプレゼンターとして出演。賞を手渡したのはアレサ・フランクリン。
7月
約11週間にわたり、ニューメキシコにて映画『地球に落ちて来た男』の撮影ロケに参加。
8月15日
ジョン・レノンとの共作「Fame」がシングルカットされ初の全米1位を4週連続で獲得した。
9月
再発となったシングル「Space Oddity」が6年越しでチャート1位となった。
11月4日
ABCの歌番組”Soul Train”にエルトン・ジョンに続き2人目の白人歌手として出演を果たす。
11月17日
翌年発表の新作に先駆けたシングル「Golden Years」発売。

1976年 : 29歳

1月3日
新作のプロモーションのためCBSの”Dinah Shore Show”に出演。「Stay」と「Five Years」を披露、またゲストには映画で共演したキャンディ・クラークが出演した。
1月23日
アルバム『Station To Station』発売。当初『地球に落ちて来た男』のサウンドトラックとして制作が進行していたが、諸事情により中止となる。レコーディングはハリウッドのチェロキー・スタジオで行われた。
2月
ヴァンクーヴァーを皮切りに”Station To Station”ツアーが開始される。北米をまわった後、欧州からイギリス凱旋公演まで約4ヶ月をかけて敢行された。ステージは視覚演出を取り払ったシン プルなもので衣裳やライティング、バックメンバーまでモノトーンで統一した。
4月26日
イギー・ポップ同伴でソ連入りする。
4月30日
シングル「TVC15」をリリース。
5月2日
本国への凱旋、ロンドンのヴィクトリア駅で観衆の出迎えを受けるが、この頃のボウイの言動も手伝って「ナチス式敬礼をしてみせた、彼はファシストだ」というメディアの強烈な批判が相次いだ。
5月
RCAよりベスト・アルバム『Changes One Bowie』が発売となり好セールスを記録。このベスト盤の選曲はボウイ自身が行っている。
8月日
シングル「Stay」が発売。
9月
アメリカを離れヨーロッパに戻る。フランスのシャトー・デルヴィーユでイギー・ポップのプロデュース作業や新作のレコーディング準備に取り掛かるが居心地の悪さからベルリンへと発つ。

1977年 : 30歳

1月11日
アルバムに先駆けてシングル「Sound And Vision」が発売となる。ほとんどインストゥルメンタルのようなこの曲はロック・アーティストとしてボウイを追いかけていたファンを困惑させた。コーラスには当時ヴィスコンティの妻だったメリー・ホプキンが参加している。
1月14日
アルバム『Low』が発売。ベルリンの壁近くのハンザ・スタジオで録音され、このアルバム以降3作がベルリン3部作となる。ブライアン・イーノを迎え、ニューウェイヴの先駆的作品と高い評価を得ているがリリース当初は賛否両論を巻き起こした。
3月18日
サックスで参加したイギー・ポップのアルバム『The Idiot』発売。ベルリンではイギーと共同生活を送り、アメリカでドラッグにまみれた心身の療養に励んでいた。
3月
イギー・ポップの北米ツアーにキーボーディストとして同行する。
4月15日
イギーとともにCBSの”Dinah Shore Show”にバックバンドのキーボーディストとして出演。
4月22日
イギー・ポップとともに来日。両人が休暇の過ごし方について話し合いをしたところイギーはタヒチ、ボウイは日本を提案し、結果ボウイの提案が採用されたそうだ。
4月25日
ニューオータニで記者会見を開く。アンジーと別居しゾウイとローザンヌで暮らしているとコメントする。
6月17日
シングルカット第2弾「Be My Wife」発売。
9月
キーボードで参加したイギー・ポップのアルバム『Lust For Life』発売。このアルバムは『”Heroes”』と対となる作品と位置付けられている。
9月9日
マーク・ボランがホストをつとめる番組”Marc”に友情出演(放送は28日)。この1週間後にボランは交通事により急死。
9月23日
先行シングル「”Heroes”」がリリース。ドイツ語やフランス語ヴァージョンも発売された。
10月14日
10ヶ月の短いインターバルで『”Heroes”』を発表。ジャケット撮影は鋤田正義氏。ギターで召集されたキング・クリムゾンのロバート・フリップはたった一晩ですべてのトラックを録り終えたらしくレコーディング自体も短期間で行われた。
12月24日
ビング・クロスビーのクリスマス番組に出演。「Peace On Earth」をデュエットする。ボランに続きクロスビーもこの数週間後に心臓発作でこの世を去る。

1978年 : 31歳

1月6日
『”Heroes”』より「Beauty And The Beast」がシングルカットとなる。
1月
ベルリンにて映画『ジャスト・ア・ジゴロ』の撮影ロケに参加。
3月
過去最大級のワールド・ツアーが29日のサンディエゴからスタートする。ツアーはUSと欧州にはじまりオーストラリアや日本も日程に組み込まれた。ネオン管を配したステージが幻想的なインストルメンタル・ナンバーや復活したジギー時代の楽曲を引き立てた。
5月12日
息子ゾウイが好きだったのでナレーター役を引き受けたというクラシック作品『Peter And The Wolf』が発売となる。
9月8日
同年のフィラデルフィア公演を収録した2枚組ライヴ・アルバム『Stage』が早くも発売となる。
11月17日
『Stage』からのシングルカットは「Breaking Glass」。
12月6日~12日
約5年ぶりの来日公演が行われる。日本滞在時には有名人が集ったパーティーが催され、黒柳徹子やデヴィ夫人、沢田研二らが参加した。
12月12日
NHKホールでのライヴが当時の人気音楽番組”ヤング・ミュージック・ショー”で放送される。

1979年 : 32歳

4月23日
イギリスのTV番組に出演。「Boys Keep Swinging」を寸劇をまじえて披露。
4月27日
先行シングル「Boys Keep Swinging」発売。PVでは一人4役をこなし、そのうち3役は女装というエキセントリックな映像が話題となった。
5月18日
ベルリン3部作の完結となるアルバム『Lodger』が発表される。
6月29日
シングルカット第2弾は「D.J.」。このPVも「Boys Keep Swinging」同様デヴィッド・マレット監督によるもので話題性も考慮した映像となっている。
12月7日
「John, I’m Only Dancing」をソウル・テイストに焼き直した「John, I’m Only Dancing Again」がシングル・カットされヒットを記録。
12月31日
70年代終わりのこの日ボウイは3ヶ国のTV番組に出演。再録のアコースティック・ヴァージョンの「Space Oddity」のヴィデオとインタヴューが放送される。
" Iwai Takumi : ."

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