このサイトについて

デヴィッド・ボウイ考察サイト STRANGE FASCINATION

このサイトについて

2002年1月から2005年8月まで3年半の期間、ボウイの情報交換の場として多数のファンに支えられ運営されたデヴィッド・ボウイの考察サイト”STRANGE FASCINATION”は、しばらくのブランクを経て2009年5月に名称を同じくして復帰しました。国内のボウイ・ファン、ボウイ・マニアには最新情報はじめディスコグラフィー、さまざまな特集コンテンツなどデヴィッド・ボウイに関する情報を活用いただけたらと思っています。

当サイトは個人が運営する研究・考察サイトでレコード会社や関連企業・団体とは一切関係ありません。
著作権・肖像権について、当サイトに掲載している画像・テキストその他の使用許可は得ていません。よって当サイトに掲載している画像・テキストの無断転載等をお断りすることもありません。商用・個人利用問わず自己責任にてご利用ください。関係各位に問題の生じる場合はお手数ですが主宰人までお問い合わせよりご連絡ください。

サイト運営の方針

堅苦しいものではないですが管理人の考える”STRANGE FASCINATION”について少しだけ説明させてください。
当サイトはボウイの研究・考察サイトであり愛好表現の追求よりもファンの自己哲学の追求、それを目的を設計思想に込めています。つまりファンサイトにありがちな「ファンだからぜんぶ好き」といったムードだけではなく「ファンだからこそ否定的な意見も言いたい」という思いまで投げかけらる間口の広いサイトでありたいと考えてきました。

現在は閉鎖してしまっていますが当時の掲示板では賛否両論でもってボウイとボウイの作品に対して理解や愛情を深めていくことができていたと思いますし、ボウイへの否定的な意見を目にしたくないという方にはよそのサイトを訪問することを奨めてもいました。
同じように非公式のリリース・アイテム(ブートレッグやコレクターズDVD等)の情報を扱うこともファンによっては意見の分かれるところだと思いますが、デヴィッド・ボウイのアーティスト活動をより深く理解したい一心より当サイトではそれらの情報も扱うこととしています。

運営者について

主宰:紐育春秋 (Iwai Takumi)

ボウイが初来日を果たした1973年5月30日生まれ。ジギーの日本公演は4月ですから、そのときじぶんはまだこの世にいなかった。ボウイの愛息でいまでは世界的な成功をおさめる映画監督ダンカン・ジョーンズは1971年の同じ日が誕生日です。

デヴィッド・ボウイをはじめて知ったのは小学校4年生の頃、神戸サンテレビで放送されていた『POPベティハウス』という番組で「Let’s Dance」や「China Girl」のヴィデオクリップを兄の後ろでなんとなくテレビで目にしたのが最初です。その頃はただMCのベッキーかわいいとかで、まだ音楽や洋楽への興味などは少したりとても芽生えていませんでした。

それから時が経ち高校1年の春。入学と同時に入った美術部で3年の先輩がボウイに影響を受けていたのです。髪をジギーほどではないけれど落ち着いたオレンジ色に染め、日によってはアイメイクまでして登校していたため先輩は文化系の部活をしている生徒にはよく知られており、周囲にニューウェイヴな雰囲気でもって違和感を発していました。当時、年号が昭和から平成に変わって間もない頃といえばニューウェイヴなどといったジャンルは音楽シーンに面影すらなく、洋楽やその界隈はボビー・ブラウンだったりM.C.ハマーだったり、それらの影響をテレビというメディアで存分に拡大させた『元気が出るテレビ』の看板コーナーだったダンス甲子園、ジュリアナ東京などが大流行していました。バブル最盛期だったけれど、じぶんはまだ高校生だったし部活もしていたためお金なんてぜんぜんなかった。

休日になると美術部の先輩が家に呼んでくれてボウイのレコードや写真集などをたくさん見せては聴かせてくれました。世間(じぶんの周辺)のだれも知らない、グラム・ロックやニューウェイヴのコレクションはまるで密輸品のような、そんな感覚がありました。帰りにはダビングした『”Heroes”』やレコードの初期コンピレーション『Another Face』だったかのカセットテープをたくさん持たせてくれて、それでようやく洋楽に興味を持ちはじめました。少し背伸びをするような感覚で、まだ洋楽の本質的な良さはわかっていなかったかもしれませんが、その先輩や写真が趣味の友人らといっしょに語らうのがとても楽しくて、仲間として認めてもらうために教養として聞いておかなきゃならない、そう考えていたのだと思います。時効ですね、先輩やロック・ミュージシャンらの絵になるたばこに憧れ真似て、安物の酒(シュワルツ・カッツとかドイツのワインと友人が決めていた)をボトルのまま回し飲みして緑地公園の展望ベンチの屋根の上で夜な夜な芸術や洋楽の解釈について語っていたあの頃もまた楽しかった。ただそれでもボウイの音楽というととっつきにくく、たとえばミッジ・ユーロ加入後のウルトラ・ヴォックスの『Vienna』だったり、ジャパンなど耳馴染みのいい「ボウイのフォロワー」から入門していきました。

同じ高校の生徒たちがダンス甲子園のものまねなどしてはしゃいでいるのを「ばかどもめ」と嘲笑しながら通学中ずっとウォークマンで耳を塞いでいました。けれど音楽はいろいろ教えてくれるものですね。とくによく聴いていたジャパンの「Second That Emotion」(いつだって12インチ・ヴァージョン!)、スティーリー・ダンの「Deacon Blues」がいつも「おまえも彼らと同じ高校に通う何者でもないばかじゃないか」と身の程を思い知らせてくれたものでした。

きちんとファンを自認するきっかけは、やはりボウイ本人をこの目で観て聴きステージを体験した、1996年6月10日のアウトサイド・ツアーの大阪城ホール公演といえるでしょうか。23歳になりたて。それ以降はブートレッグの世界を知り、ホームページがじぶんで作れると聞きインターネットにのめり込みサイトを公開、ニュースや記事を掲載するために情報収集を心がけ、たくさんのボウイファンの方たちとやりとりするなかで、いつしかボウイ研究がプライベートの中心になっていました。またいつかの機会に話せたらと思いますが、インターネットのボウイ界隈にデビューといいますかハンドルネームを決めて掲示板に書き込んだり自身でサイト運営しはじめる際にもボウイファンの先輩方々の後押しがありました。1999年から2000年の頃の話です。
それ以降も考察サイトを中心にこれまでに幾度となくボウイに関する企画やイベント、たとえばチャットやオフ会(2004年は来日記念パーティーもやりました)はもちろんのこと、会員制コンテンツやオンライン・コミュニティの開設、トリビュート・バンド結成やボウイ専門ネットラジオの配信、同人即売会に出店などなど、ボウイに関するさまざまな催しを企てては実践してきました。どの活動も自己満足というよりはボウイの認知度向上にかける使命感が動機になっていました。そのためなにか行動を起こせばその度に挫折感に苛まれるといった繰り返しでした。

それから16年後の1月11日にボウイの訃報を知り、茫然自失だった日々から1年が経ったいまでもきちんと立ち直れてはいない気がします。ボウイ研究をライフワークにして13~14年、振り返ってみれば長いようで短い日々でした。
ヴィクトリア&アルバート博物館の大回顧展は現在日本にて開催中です。3月はじめに観に行ってきましたが、偉大なアーティストの文化遺産として観たのか、個人的に思い入れのある大切な人の遺品と観たのか、研究成果に結びつけようとしながら観てしまったのか。どのようにも受け容れられないまま寺田倉庫を後にした、そんな印象です。

思いがけず長くなりました、おしまいにデヴィッド・ボウイの魅力とは何なのかという問いの答えを。それは端的に「飽きさせない」ということに尽きるのではないでしょうか。ボウイ自身も「飽きさせないと約束するよ」と発言していましたが、そのずっと以前から抱いていた答えです(まぁボウイを追いかけていたらかんたんに行き着くし凡庸ではあるのですが)。過去の成功に満足することなく常に新しいスタイルに挑んでいくだとか聞こえよく言えるのですが、真実はいつも私的かつ差し迫った問題を解決するための対処でしかなかったのかもしれない、なんて思います。そしてさまざまなことに挑戦するときのボウイのあの真剣さと音楽に対するひたむきな愛情(奇抜なヴィジュアルやエキセントリックな言動によってとらえにくい)には、いつも胸を打たれます。表層だけのイメージばかり着せ替えているタレントで飽和状態のこの時代だからこそ思想や哲学まで、それは時としていびつだったり珍妙ではあったにせよ着せ替えてきたボウイの存在がひときわ大きく映るのかもしれません。

2017.03.11